2300年前の大豆‐下松の宮原遺跡3/3

64粒の大豆

64粒の大豆

前々回前回につづき、下松市の大豆の話です。

下松ネットが、宮原遺跡から出土した大豆がどこにあるか各所に問い合わせたところ、山口県埋蔵文化財センターに保存されていました。発見当時に大豆であろうと鑑定された植物遺体があるということで、詳しい話をお伺いし、現物を撮影させていただきました。この場を借りて心よりお礼申し上げます。

宮原遺跡の弥生時代前期の遺構には44の土坑(どこう=土のくぼみ)がありましたが、その内4つの土坑から大豆が出土しています。これらの土坑はゴミ捨て場か貯蔵穴だったと考えられています。今回撮影させていただいたのは、その中の一つ「18号土坑」から出土した64粒の大豆です。

宮原遺跡の大豆は発見当時日本最古だと考えられていましたが、その後の発見があり、日本における大豆の歴史は縄文時代中期にまでさかのぼるそうです。一般的には縄文時代は農耕をほとんどしていなかったと思われていましたが、陸稲(熱帯ジャポニカ)、大豆、小豆、大麦、ヒエ、キビ、アワ、ソバなどを混作をしていたと現在では考えられています。

宮原遺跡では、大豆以外に、稲(炭化籾)、ハクウンボクの種子、ノモモ、コナラ(ドングリ)、炭化小麦、炭化大麦などの植物遺体も出土しています。中でも稲(炭化籾)は陸稲かもしれず、水稲農耕を取り入れる前の弥生人の集団だった可能性があります。
※陸稲説は、下松地方史研究:斎藤 順 氏の説より

下松では縄文遺跡は発見されていませんが、宮原遺跡の近くにある上地遺跡(あげちいせき)から縄文土器のカケラが出土しています。もしかすると宮原遺跡のどこかに縄文の遺跡も眠っているのかもしれませんね。

大豆のクローズアップ

大豆のクローズアップ

下松は、少なくとも「2300年前から大豆にゆかりのある土地」だということは言えます。歴史的には、大豆が一般に広まったのは鎌倉時代以降だそうで、江戸時代においてもなお大豆は贅沢品だったようです。(大塚製薬SOYJOY 大豆にまつわる“はじめて”より)。それが、下松では2300年前の弥生時代から食べていたわけですから、どんな生活レベルだったのか、どんな食文化だったのか興味がわきますね。

大豆は煮豆、枝豆、きな粉、もやし、納豆、豆腐、油揚げ、厚揚げ、豆乳、醤油、味噌、湯葉、おからなど、現代でも多種多様に加工されています。それは生大豆にある弱い毒性を加熱して無効化するためなのですが、消化吸収をよくして美味しく食べるための知恵でもあります。下松の弥生人は、やはり弥生土器で煮て食べていたんでしょうか?豆ご飯ぐらいは普通に作ってそうですよね。

弥生時代の下松に思いをはせながら、現代の食文化を考えてみるのは意義あることです。下松ネットでは、この「大豆ゆかりのまち、下松」を一つのテーマとして、今後いろいろなプランを考えていきます。

※取材協力・・・山口県埋蔵文化財センター

※参考文献

  • 山口県埋蔵文化財調査報告第20集
    宮原遺跡、上広石遺跡(山口県教育委員会)
  • 下松地方史研究 第44輯
    宮原遺跡から見た下松の「稲作以前」の農耕(斎藤 順)
  • 図説 周南・下松・光の歴史 (郷土出版社)
    県内最初の環濠集落‐宮原遺跡(山本一郎)



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