“星降るまち”のキャッチフレーズを持つ下松市ですが、実際の隕石落下とはどんなものか? お隣の国ロシアの隕石ムービーが興味深いのでご覧ください。
ロシアは国土が広いのでたくさんの隕石が落下します。スマホやドライブレコーダーなどの普及とともに、本物の隕石落下シーンが撮影されるようになりました。
通常、隕石は大気との摩擦で燃焼したり、爆発したりして、地上到達前に消滅してしまいます。これを流星といいますね。しかし、燃え尽きずに残っていると、落下時にはとてつもないインパクトが発生します。下松市の伝説『推古天皇のころ、鷲頭庄青柳浦の松の木に大星(北辰星ともいわれている)が降り、7日7夜光輝き「百済の皇子がこの地へやって来る」というお告げがあった・・・』(下松市ホームページ「市のプロフィール 地名の由来」より引用)のような現象は起きにくいと考えられるのですが、実際はどうだったのでしょうね。 もともと星降る伝説は大内家の書物に記されていたものが源です。お告げがあり、その後やって来たという百済の皇子が大内家の始祖だと伝えられています。 下松(降松)は、かつて周防守護職鷲頭家(後醍醐天皇-足利尊氏の時代)が城を構えていた本拠地です。下松が周防一国の中心だったわけで、この地で武家が地位確立のために様々な文化戦略を用いていたことは想像に難くありません。
鷲頭家は大内家の庶流ではありますが、一時は宗家を超えて大内一族の惣領でした。日本に帰化した百済の王子が、推古5年(597年)に創建したといわれる降松神社(当時は妙見社)は、大内菱の家紋を今も使っています。 その後、鷲頭家は大内宗家との戦に敗れ軍門に下りますが、同時に文化的資産も大内家に移ったようです。先ほどの大内家の始祖の伝説は、鷲頭家から大内宗家に吸収され、妙見社という文化も、天長4年(827年)に降松妙見社から勧請(かんじょう)されたという山口市の北辰妙見社(氷上山興隆寺内 山口市大内御堀426-6)に重きが移っていったようです。 歴史は勝ったものの都合によって書き換えられますが、その端々から史実が垣間見えることがあります。もしかしたら下松の鷲頭家は大内宗家に負けず劣らず本流だったのではないでしょうか。そうでなければ大内宗家が氏の伝説や守り神を、負かした相手から吸収しないと思うのですが・・・戦乱の世に流星の如く瞬いた鷲頭家、そして降松の伝説。今では真実を知る由もありません。 おりしも日本では、8月13日午前9時ごろ、ペルセウス座流星群が極大になるそうです。