前回に続く降松神社上宮への初詣のレポートです。
まず降松神社上宮・中宮の位置を振り返っておきましょう。上の写真は1月4日、切戸川と吉原川の合流地点からの撮影です。左に見えるのは、建築がほぼ完成し稼働が近い下松市消防署です。中央には降松神社の若宮。右奥に見えるのが鷲頭山で、ここに中宮と上宮があります。山の向かって右側の傾斜が山頂に近付くほど急なのがわかりますね。特徴ある形ですが、この形が鷲の頭に見えたのでしょうか??
時間を戻して元旦の日。真っ暗な山道をハーハーあえぎながら登っていくと、時折木立の間から月が見えます。元旦の日は月齢20日。右上の小さな点は木星です。それにしても、同じように初日の出を見ようという人はだれもいないのか、全く人の姿を見かけません。
参道には丁石(ちょういし)があり参拝者の道しるべとなっています。写真のものは七丁石です。一丁は約109mなので、ふもとから763m歩いたという計算になります。真っ暗闇で無音という恐怖の中、引き返そうかと何度か思いましたが、丁石を見るたびに勇気づけられました。十三丁目辺りで遠くから「カサ」っと枯れ葉の音が! 熊か猪でも出たかとビビりましたが、懐中電灯の光が見えてほっと一息。ようやく1人の方とすれ違い「あけましておめでとうございます」のご挨拶。
その後も登り続け、十七丁目で大きな山門に出会います。これは随身門(ずいじんもん)で左右に随身(ずいしん or ずいじん)の像が安置されています。日中の光では降松神社の随身はほぼ見えないので、ここを通る人のほとんどは気付かないでしょう。筆者も後から写真を見て気が付きました。向かって左に赤い随身、右に緑の随身。調べると、随身は高貴な人を警護する役職のことで、神道の門においては聖域を警護する神様だそうです。随神と書く場合もあります。門守神(かどもりのかみ)、閽神(かどもりのかみ)、看督長(かどおさ)、矢大臣・左大臣とも書かれます。この門は、降松神社が妙見社であった時代は「仁王門」でした。今でも年配の方は「仁王門」と呼んでいるそうです。
随身門を抜け5分ほど登ると鳥居があります。いよいよ中宮が近づいてきました。その奥には、なんと・・・絶望的な角度の石段が延々と・・・先は暗闇に溶け込んでいます。山の形を思い出してください。あそこです。
石段を1歩1歩登り、途中で左に90度曲がり、さらに登り続けると中宮の拝殿が見えてきました。神々しいという表現がまさにピッタリ!初詣のための明かりも灯されていてホッとしました。長い石段の先に90度曲がって初めて見える配置は、設計者の演出を感じます。やるなあ、昔の人。
考えてみればこんな高い場所にこれだけの建築物を建てるのは並大抵のことではありません。建築資材はもちろん、登ってきた石段もすべて運んでこなければならないのです。いったいヒトモノカネがどれだけつぎ込まれたのか想像すらできません。降松神社は何度か再建されていますが、1407年前(609年 推古天皇17年)に初めて中宮が建てられたときはどんな姿だったのでしょうか。日本最初の貨幣「富本銭(ふほんせん)」は683年(天武天皇12年)頃ですから、お金すらまだなかった時代です。
後から調べてわかったのですが、建立から700年ほど下る南北朝~室町時代にはこの中宮に五重の塔もあったそうです。山口市の瑠璃光寺(るりこうじ)の五重の塔(国宝)もほぼ同時代の建立ですから、同じような荘厳で華麗なたたずまいがこの中宮にあったのかもしれません。当時は北辰妙見信仰の中心地として『妙見本宮』と呼ばれ、大内義弘が守護大名であった周防・長門・石見・豊前・和泉・紀伊の各地に北辰妙見社が勧請されたそうです。