降松神社をめぐる『下松北辰ライン』の謎(前編)

茶臼山山頂を目指し夜間登山

下松北辰ライン

国土地理院地図で磁北線を表示

下松北辰ラインを発見した下松ネットは、そのラインが引かれた1400年前の様子を想像するべく、5月某日、夜間の茶臼山への登山(ハイキング?)を敢行しました。茶臼山山頂から、降松神社の上宮・中宮がある鷲頭山と北極星がどう見えるのか?何ゆえ、こうしたライン上に神社(当時は北辰妙見社)の移設を行ったのか?謎に突き動かされる形で、カメラと三脚を抱えて一人真っ暗な山道を登りました。

茶臼山(標高349m)の場所は、日立製作所笠戸事業所のすぐ東です。国道188号線の東豊井「大谷パーキング」から山頂まで片道約3kmです。初めて登る山道ですが、距離も大してなく、ネットで集めた情報によると歩きやすいそう。まあなんとかなるのではないかとの希望的観測で・・・しかし・・・・・山を舐めたらいけませんね。

山道は月や星も木々に遮られて完全な闇です。しかも、まったくの無音。足を踏み外して、崖から落ちたらとんでもないことになります。ライトが壊れたら1歩も歩けないでしょう。ただ、携帯の電波だけはどこでも大丈夫でした。


下松市の夜景_茶臼山_山腹より

上の写真は、大谷パーキングから2.39km歩いた地点です。真っ暗な山道から一時的に展望が開け、そこから西に向かって撮影しています。時間は夜の9:24ごろ。笠戸大橋の手前に、妙見社が最初に設置された桂木山が見えます。

下松市の茶臼山_山頂

茶臼山山頂には三角点と、なんとベンチが2つありました。疲れた体が癒されます。ここからは下松港はもちろん徳山港、そして光市の港もよく見えます。

徳山要港境域標

三角点そばにある石柱には「徳山要港境域標」の文字が見えます。これは旧海軍が測量や防衛観測のための重要地点に設置したものです。周南市にはかつて日本海軍燃料廠があり徳山港は特に重要な港だったのです。戦艦大和が「沖縄特攻作戦」で、行きの燃料しか積まずに出航した本土最後の燃料補給地として有名です。

これらのことからわかるのは、茶臼山は昔も今も周南‐下松‐光の海運を制するためには絶好の場所だったということです。3つの港を一望できるところに妙見社を設置したのは、単なる宗教上の理由だけでなく経済的・軍事的な側面もあったと考えられるでしょう。


この夜、残念ながら茶臼山山頂では急速に水蒸気が立ちこめ、撮影はほとんどできませんでした。カメラのレンズに結露し全くだめ。空にも雲がかかり星が見えなくなりました。

茶臼山から鷲頭山を望む

上の写真は、鷲頭山方向を撮影したもの。北極星はおろか何が何やら・・・数時間粘ってみましたが状況は回復せず、断念せざるをえませんでした。登山前は雲ひとつない快晴で、天気予報も晴れだったのですが。

1400年前の下松を想像する

登山をしてわかったのは鷲頭山は海からは見づらく、奥の院的な地理条件を備えた場所だということです。それは海を航行する敵船からは見つけられ難いということです。筆者の想像ですが、防衛のために拠点を内陸側に移動させたのではないでしょうか?ちなみに鷲頭山の中宮そばには亀池があり、立て篭もっても命をつなぐ「水」が入手しやすいという地の利があります

  • 597年(推古天皇5年)・・・桂木山に北辰妙見社を創建
  • 603年(推古天皇11年)・・・茶臼山(高鹿垣)に社殿を遷す
  • 609年(推古天皇17年)・・・鷲頭山に上宮・中宮を建立

このころ、中国では強大な統一国家「隋」が581年に建国されています。それまでの300年間、分裂状態だった中国が久々に統一され、遠い他国を侵略できるパワーを手に入れたのです。

風雲急を告げる中、聖徳太子が「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙なきや」と煬帝を激怒させる書を送ったのが第二回遣隋使で、607年のことです。怒った煬帝は使者の小野妹子に返書を持たせますが、小野妹子は返書を盗まれてなくしてしまいます。これは、とても見せられる内容ではないので、なくしてしまったことにしたと推測されているそうです。相当きつい内容だったのでしょう。

外圧に対抗するように、当時の日本は国家としての体制を整えていきます。冠位十二階、十七条憲法、仏教の取り入れなど、いわゆる「中央集権国家」として成立していきます。もしかすると、都からは遠い地ではありますが、下松でもいろいろな方策や備えが施され、「下松北辰ライン」もその一つだったのかもしれませんね。

つづく


 

 

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